SENSATION[サンサシヨン]

Sensation:印象・感覚・刺激・興奮 Concept:雑草魂 Keyword:20世紀ノスタルジア

四季 その他

   私

私は書いている時の私
私は書いていない時の私

書いていない時の私は
自分をなんて無能な
役立たずの者だろうと思う

書いている時の私は
必死にがんばるしかなくて
たったこれしかできないものかと考える

ひとまずゆっくりできるのは
自分の書いたものを 読んでいる時の私
(でも、あ、ここに誤植が)


   夢

私が夜に見る夢は
いつでも現実になかったことばかり
けれど いつかどこかで
それはあったとしか思われない

夢を見なくなる時期がある
その間は むしろ楽に生きられる
普段は物を考えない
夢を見ると 考えなくてはならない

明け方の夢を見ることに
憧れなくなってから
私の昼間は 穏やかになった

     ***

   春

明るい光も あったのだ
それは春の 庭先の写真
掃出窓に 腰をかけて
母と 幼い私と妹

父は写真が 好きだった
撮影したのは 庭の隅から
後で父が 小さな焼却炉をつくったあたり
まわりには まだ何もなかった

その窓に 父はテラスをつくった
そのテラスに 父はバイクを駐めた
その横に 私の自転車が置かれた

何もない 新築の一軒家
母もまだ 笑っていたと思う
明るい光も あったのだ


   夏

朝まだき
今ごろあの町では と思い返すのだが
そんな時空が もはやあるはずもない
時も人も 変わり続けるのだから

甲虫(かぶとむし)の幼虫がいる林の側から
犬を連れスカートをはいた女の子が
濡れた道を通り過ぎるのを見ていた夏
それは私が 作り出した映像でしかない

わが家へ向かう道と 祖母の家への道
そして北の森へ続く道の三叉路
そんな記憶を持つ人は 私だけだろう

わが家はもはやなく 私を待つ父も
今はない だけでなく もうじき
私の死とともに すべては元の無に帰る


   秋

落葉が雪のように降る
終末と滅びの予感のなかで
今ひとたびの 秋を夢む


   冬

年の末 また次の一年
区切りはいつか終わり
ひたひたと 近づいてくる
死の訪れを 気配に感じながら
またもう一年 命をつなぐ

     ***

   喪主

母の時も 父の時も
 私が喪主をつとめた
母の時は 父に お前がやれと言われ
 戸惑ったが なんとかした
焼香の後 父は坊さんと
 親鸞の話などしていた
どちらも 妹がすべてお膳立てしてくれた

父の時は 最後の挨拶で
 父の多趣味について触れた
それが良かったと 妹には賞められた
 それで気をよくして
それ以来 次の弔辞を考えている
 次は私の番なので
自分に喪主は つとめられないのだが

冬から冬へ

   友達

ふいに 友達という言葉を思い出す
けれど その実感は湧いてこない
友達を失ったまま ここまで来てしまった
思えば昔 たくさんの友達がいたではないか
友達は皆 どこへ行ったのだろう


   証言

戦争のことを思えば
どんなことにだって耐えられる
そうお前は人に言ったではないか

父の書架にあった兵士の証言
艦から投げ出され
木端にすがって海を漂うと
尿が水中の服を伝って温かいという

あるいはアウシュヴィッツの写真集
痩せ衰え シャワーと偽られて
裸でガス室へ歩む女たち
お前はそれらを見たではないか

戦争のことを考えれば
どんなことにだって耐えられる
今がそのときではないのか


   失われたもののある場所

そこに行けば 見ることができる
失ったもの にどと手の届かないもの
少なくとも 映像だけは見ることができる
既に声はなく 既に温もりはない

ただそこに行けば 思い返すことはできる
忘れないために
もういちど 手に入れたいと思うために

父は突然死んだ
私はまだ生きている
まだ生きていて
失われたもののある場所 それがどこか
知っているだけで
十分ではないのか


   庭

父は庭を作り始めた
小さな庭だ。
最初は、篠竹を切ってきて
それを杭にして紐を渡した。
その後、(どこから貰ってきたのか)
ビール壜を逆さに埋めて
土止めにした。

水仙が咲いたね。
これはマリーゴールド
これがアイリス。
クロッカス。

更地だった庭に、次第に木を植え
葡萄、さくらんぼ、李、桃
太陽がいっぱいで、
庭はいつかジャングルのようになった。

いつか 小さな従弟が家に来た時、
私はすももの実をもぎって食べさせた。


   秋の雨

秋になって雨の日が増えた
部屋に閉じこもり雨音を聞く
なんと奥深い言葉だろう
ただし昔日とは違い そこには
しぶきを上げる車列の音
高架線を通る電車の音も
混じっている

飽くこともなく 降りそそぐ雨を
窓外に見ていた 昔日の雨
窓の向こうは畑で 開いた窓から
湿りきった空気が入り込んでいた
命の水?

街を移り 人は少しずつ減り
私から人は遠ざかる
近づく終末にかすかに脅えながら
今も私は雨の音を聞く

昔日の雨の中で
おそらく 私は守られていたのだろう
今も私は 守られているのだろうか


   朝

朝、八時になると表の車に
隣家の女の子が乗り込む
おおかた保育園に送られていくのだろう
はしゃいだ声の日が多いが
泣きわめいていることもある

朝になって外部が動き始める
女の子の声がして ドアが閉まる音
そしてエンジンが一噴きし
元のしじまが戻る

   *

隣家は越した
保育園へ送る車の音も
女の子の声も
朝の定時に聞こえなくなった

人が私から離れていくようだ
私が人から離れていくように


   別れ

別れは いつもかなしかった
と過去形で一般化するためには
今 は常に早すぎる
そう呟くのは 余裕か強がりか

長く厳しい冬はいつか終わる
だが春が来れば次の冬が思われる
とはいえ 何も芽吹かないのではない
むしろその継続がかなしみの源(もと)なのか

ふるえているのではない
帰るところもない
行き着いた場所はそこも異郷

こうして詩をとめどなく書くうち
別れは必ずや訪れ
春と冬は こもごもに過ぎてゆく


   見切り

私のまわりで人が死んでゆく
私を愛したまま
私を残して ではなく
たぶん 見切りをつけてゆくのだ

仮寓の街

   朝まだき

大きな街は まだ眠っている
街は夜の間に 居ずまいを正す
そして人々が眼ざめるのを待ち受ける
今朝も人は起きてくるだろう
生命(いのち)あれば



   仮寓

窓を開けると 落葉樹の木立が見える
その向こうに 一本の常緑樹が立つ
冬になると視界が開け 一面の雪野原となる
この仮寓に もう長いこと暮らした
そう思いながら
先ほどまで見ていた どこにもない街の
夢を思い出そうとしている



   坂道

初夏の夜 濃密に湿った 重たい空気の帳
アスファルトの坂道は黒く濡れていた
緑町。
坂を降りて行った
樹木の生い茂る住宅街



   晩夏

樹々の梢は色を変え
空気は煙(けぶ)りだす
この街に
あと どれぐらいいられるのだろう



   晩秋

軽く手を触れれば跳びはねる風船のように
言葉も軽々と扱うことができた
あの頃 もっと言葉を信じればよかった

ただし 今ここにあるひとにぎりの孤独
そこから言葉を生み出さなければ
もう二度と 私の言葉は生まれないだろう

もうじき あの冬がくる  

 夢

私の
ただ一つだけの
外部への出口



 野ばら    en hommage à Mimei

野ばらの咲いた 陽あたりのよい 春のベンチで
青年はショスタコーヴィチが好きだと言った
老人はヴィヴァルディが好みだと返した
二人はこのところの知り合いだった

青年は 楽器を欲しがっていた
やわらかな音の出るコルネット
老人は もはや自分の唇が震えないことを知っていたので
リコーダーが欲しいと言った

青年は 未来や憧れについて語った
そのことばは尽きることがなく 
紙に向かうと とめどなく書かれた
老人は 自分の思い出について
ことば少なく語った 
自分の書いたもの 自分の演奏した曲

青年と老人は この夢の中だけで会う
彼らはこの夢から外に出られない
仮に外へ出たとしても そこは
野ばらも太陽もない 永遠の冬だと
彼らは気づかなければならない



 不条理について

われらは皆 孤独を求める輩で
切り離されていなければ 何も生まれない
だが生まれたものは 分かち合わなければ
意味を持たない という不条理の中にある

だから束の間だけ 交わらなければ
と夢の外に出るのだが すぐに戻ってくる
われらに与えられるのは ひとつかみの空間
そこに籠もって 紙を見つめる

われら ものを書く輩



 夕暮れ

夕暮れは 誰の上にも等しく訪れる
 空は空虚でさえぎるものがない
  遠い山にも 青い帳りが迫る

けれど 夢の中では
 決して会うことのできない人にも会うことができる
  今 同じ夕暮れに包まれている人に

失われたもの

 時間

まだ振り返る時ではない
もう少しだけ 時間はあるだろう
それはほんの少しかもしれない
けれども少なくとも
無ではないだろう



 廃墟

その区画に 元は子供もいた
ゴミ捨て場のコンクリート
ボール投げをして グラブで拾っていた
夕闇が迫るのも 知らぬ気(げ)に

子供の家(うち)は転居した
後には まだ年配者の家族があった
とき偶(たま)に 隣人に会うと
一言二言 笑んで挨拶を交わした

やがて 誰もそこにはいなくなった
もう郵便車も駐まらない
ボール投げも 笑みもない
冬は雪の 積もるに任せた

このようなものが 死かも知れない
誰にも見捨てられ 老いて朽ち
誰にも知られず 雪に埋もれていく
そこは私のための 静かな廃墟



 天才の話

俊太郎は天才だと 君が言った夏
そのときはぴんと来なかったが
裏返せ 俺を もつれたままで
と 自分も口ずさんでいたに違いない

君がいた夏
今も 俊太郎はいるが



 図書館

図書館は小さな街だ
街で「二度と」がないように
そこでは日々 失われる
あの日 窓に向かい外が見えるコーナーで
調べものをしていた君

図書館は小さな迷路だ
そこでは今が 失われる



 あこがれ

詩にあこがれてノートに書き写し
犀星の雨脚の幻を高台から眺めていた
私は自分を無垢だと思っていたのだろうか
あの頃は鉛筆で文字を書いていた

詩人になろうとなど考えたこともない
ただ 言葉は空間から生まれた
窓の向こうに街が見えた
あの部屋でないと言葉が生まれない

言葉は部屋の窓から生まれた
部屋からは世界のすべてが見えた



 走ること

いつの頃からか 追い越されることに馴れた
初めはまだ 追い越されることが悔しくて
追い越されないように 走ろうとした
そのうち 走れなくなった

誰にも追い越されないためには
走り続けなければならない
止まってはだめなのだ 誰かが後ろから来る
そう思って 走ろうとした

そのうちに 止まることを覚えた
休んでも またダッシュすればいい
スピードが速ければ また追い越せる

止まるのが長くなり 今はもう
ダッシュのしかたを忘れている
追い越されても ここにいた方がいい と



 キャンパスの風

葉擦れの音や木洩れ日を追い
私は歩いていた キャンパスの舗道を
風が横から吹き 吹いた風は
枯れ葉を舞い上げ そして積もらせた

私が向かう先に 何があったのか
それは膨大な 文字列の塊
それは漲る声の 響き合う空間
風は教室の外を 吹き抜けた

満たされることもなく 歩みを止めず
私はキャンパスをまっすぐに進んだ
その日々 その繰り返しの時間

それは私に力を与え それは私から
力を奪った 無限の彼方から
その日々 そのかけがえのない日常



 雨

雨に濡れた湯島聖堂
歌の文句を思い出して来てみたが
石段は水が流れて色も分からない
ましてや 檸檬は落ちていない



 雪

雪の原で一心に雪を掘る子ども
その子どもは私だ
冷えるのも 日が暮れるのもかまわず
いつまでも雪を掘り続けている

道ばたにはそこかしこに 小さなかまくら
不格好に口をひらき
同じように 傾(かし)いだ雪だるまが
そこにもここにも 転がっていた

雪が降ると あたりが白くなり
物はみな黒く 印象ふかくなり
ひとは心を静かにした

「雪が降るくらいだから 今夜は暖かい」
そう父は言っていた
窓のカーテンの向こうを窺いながら



 11月25日

三島が死んだ日
僕は給食当番だった
午後の授業で先生が入ってきて
作家が割腹したと告げた

あろうことか先生は
何をするか分からない人がこの中にもいると
僕の名を挙げて言った 教室を鎮めようと
食器籠を持ち上げて落としたと

暴力、器物損壊、自傷行為
何をするか分からない?
いや逆に 僕には何でもできるのかもしれない
そう先生は気づかせてくれたのか



 監禁

僕はここにいる
僕はここにいるよ
僕はどこでも
僕のいるところにいつもいる

僕は逃げない
僕はいつまでも待っている
僕は僕の置かれた時空間に
いつでも自分を監禁している

僕はここにいる
僕はここにいるよ


幼年時

   祭

祭は遠くで行われていた
八幡さまのお祭だ
祖母は私の手のひらに
百円札を握らせてくれた
私は浴衣を着ていた
(祖母の家にあった浴衣だ
誰のものということもなく)
ただ 祭の夜店を歩いてきた
その間に百円札をなくした
祖母はそれを聞き
(手に持っていたら なおさら落とさない
はずなんだけどな)と
やさしく私に言った


   鏡

母の持ち物だった三面鏡
あれは 母がいなくなった後
ばらばらに壊れて捨てられた

私を映す鏡がない
私は鏡に映らない
だから私には鏡像段階もなく
私は自分が何者だか 今も分からない


   河

上流から河を流れてきたシャンプーの容器が
河の入り江に入りこみ
くるくる回っている

私はそれをいつまでも見ていた
初夏の あたたかな日差しの下で


   言葉

切れるように鋭い
 言葉が書けるはずだったのだ
言葉は止めどなく湧き溢れて
 後からいくらでも生まれてきた

言葉が出てこなくなったとき
 私は戸惑い 焦り そして脅えた
たぶんテキーラの酔いが照準を狂わせ
 肌の木目が昂りを鎮めたとき

いつか言葉がほんとうに戻らなくなった日
 私の呼吸は止まるのだろう
生命の黄昏のその闇の中で

言葉は臓器のどこかに固まったまま
 私とともに死ぬのだろう
書かれなかった たくさんの追憶とともに

掃き出し窓の話

 あの頃、父は帰ってくると居間の掃き出し窓を外から開けて、買い物袋を中に入れた。掃き出し窓のあるテラスの側を回って玄関にたどり着く導線の家だった。父はテラスに通勤用のホンダのカブ(バイク)を置いたが、その習慣は通勤の足がホンダの軽に変わってからも続いた。そのテラスも、父が木材とブロックと波型のプラスチック板で作ったものだった。

 四畳半の居間には、TVとコタツとストーブがあった。掃き出し窓側の角にTVがあり、コタツの掃き出し窓の側は妹の場所だった。その反対側の壁が私で、父はその間のコタツの辺にいたが、隣の部屋との段差に腰下ろしていた。居間は板の間で、隣の父の寝室は畳敷きだったから段差があった。母がいた時、母はどこかにいたのだろう。でも、母が居間のどこにいたかは思い出せない。母には定位置がなかったのだろうか。

 それはさておき、父が買ってくる食料品で夕飯にするのが基本だった。唐揚げ、天麩羅、ポテトサラダ。父が帰ってくるとだいたいそれを食べる。チョコバーやお菓子も袋に入っていることがある。そのおかずと飯で夕飯にする。野菜がないと、庭に埋めていたパセリの鉢からパセリをもいできて食べた。その後しばらくして、さらにインスタントラーメンを食べるのが、中学生の頃はほとんど日課だった。

 インスタントラーメンの作り方を父から教わった。そもそも火の着け方も。マッチを擦ってからガスの栓を捻るのだ。インスタントラーメンに直接入れて柔らかく煮込むほうれん草はうまかった。高校の時の朝ごはんが、肉とほうれん草入りのラーメンということがしばしばあった。私は受験勉強をしていたので一番遅く起きると、父と妹はもう出かけていて、私の分のラーメンが鍋に残っていた。その頃はもう、とうに母はいなかった。

 中学も高校も給食はなく、弁当を持っていかなければならない。父は私に弁当を作ってくれた。だいたいは、電気の魚焼き器で焼いた鶏肉の塩焼きか、特産だったマスの小ぶりの塩焼きが、ご飯と一緒に弁当箱に入っていた。父はサンドイッチ作りが得意だった。とはいえ、ハムとレタスとバターしか入っていない。それを一口食べた級友は、お前のお母さんは料理が上手だね、と言っていた。

 私と妹は、クリスマス近くになると父がケーキを買ってきてくれるのではないかと心待ちにしていた。実際、買ってきてくれることもあった。丸いクリスマスケーキのことも、カットされたケーキのこともあった、一度だけ、アイスケーキを買ってきてくれたのは今でも記憶に残っている。それは私が食べた最初で最後のアイスケーキだった。でも、クリスマスにもケーキではなく、当時流行っていたチョコバーだけのこともあった。父は、これがケーキだ、と笑って言った。

 ときどき、食べ物がなくなると、私と妹は最後の食べ物をめぐって争った。妹が泣き出すと、父は、妹にやれ、食いもんのことで喧嘩するな、たった二人の兄妹(きょうだい)じゃないか、とたしなめた。また父は、残りを全部食べろという時に、さらえろ、と言った。最近になって妹は、あれは、父の出身地の京都の方の方言だった、周りの人に通じないので調べたから、と教えてくれた。

 母がいなくなった後、近くに住んでいた祖母や、まだ嫁いでいなかった一番若い叔母が、クリスマスに訪ねてきた。小学生と中学生の私たち兄妹が寂しいと気遣ったのだろう。中学一年の私は得意だったギターで伴奏して、妹と二人、彼らの前で「清しこの夜」を歌った。でも、長じて三年生ともなると、歌うのはもう気恥ずかしかった。それでも祖母は一生懸命、歌ってくれた。孫が大学生になるまで生きているとは思わなかったな、と言っていた祖母は、私が大学三年の時に亡くなった。

 「掃き出し窓」という言葉を覚えたのは、ずっと後、いい大人になってからのことだ。雪国のこととて、窓は二重になっていて、間にスペースがあった。小さい頃はそのスペースに入(はい)れた。掃き出し窓の前に、小三の時には最初の勉強机が置かれた。冬は内側の曇りガラスの窓を開けて、外に雪が積もったか見た。エンジンの音がして、父がテラスにバイクを駐(と)める。私と妹が駆け寄る。ほら、掃き出し窓が外から開(ひら)く。